2008-10-24
秋のシアトル
アメリカに住むとしたら・・・私の中での一番はシアトルでしょう。
訪れるたびになぜかホットします。
海と山に囲まれ、アジア系の方も多いから?!安心して街中を歩けるから・・・?!
そんな理由でしょうか?!そして、地方都市にもかかわらずマイクロソフトなどのIT企業のみならず、スターバックスをはじめ様々な大企業が育つ環境が人の要素を含めここにある・・・私事ですが、遠い親類が100年以上も昔に、岩手からシアトルへ移住しました。
母親からその話を聞いていたものの、彼方アメリカにいるはずの親類とは音信もないようで、どうしても海の彼方向こうの親類に会いたいあまり、10年以上前になりますが、その親類を探しました。
パイクスマーケット前
移住した親類は、母方の曾祖母の兄で、よく調べますとその頃の親類たちは当時にしては珍しく大学にも行っていたようで、なんと英語が話せたようです。アメリカで戦後出版された、日系人電話帳を調べたり(残念ながら親類は掲載されていませんでした)、岩手の図書館や資料館へ通い、当時の名簿やら新聞を調べたり、その時代にタイムスリップしたようで調べ物をしながらとても楽しい気分になっていました。
結局、日系人の電話帳の同じ苗字の方たち10数家族へ、移民した年やそのほか情報を記した手紙を日本から送り、「まあだめもとだけどロスの全米日系人博物館とシアトルへ行けばどうにかなるかな〜。」と出発の準備をすすめ、出発するほんの数日前に2世にあたる方から手紙が届きました。
ほとんどの手紙が戻ってきましたが、2世にあたるT氏は同じ苗字の友人から「これ君のところじゃないの?!」と言われ私に手紙を下さったようです。
シアトルで2世にあたる当時60代、70代にあたる方たち、そのお子さんの3世そして私と同じ4世の10数名の家族にかこまれ、いろいろなお話を聞きました。
戦中戦後大変な思いをしたようですし、英語が話せたので2世にあたる子供たちは英語で育て、自身日系社会とは離れ、最終的にはイタリア人街で小さなお店を経営していたようです。戦後一度夫妻で実家へ帰省し、その時にアメリカに残した子供たちへ宛てた手紙(英文)のコピーももらいました。その後2世のお子さんたちは日本語がまったく話せないため、結局日本の親類とは音信がとれなくなってしまったようです。
新地への開拓の精神そしてタフさなど私にはなかなか真似の出来ないことですが、シアトルを訪れるたびにその親類そしてシアトルの100年前を想像しながら街を歩いています。
By Masumi
いただいた当時の写真
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